読むこと、見ること。

読んだこと、見たことの感想、批評。思ったことなど。

Le chalet 2018年

ル・シャレー離された13人というフランスドラマを見た。

フランスの田舎町で、親を殺された子供が復讐する話しである。

はじめは、人が死んでいくなかで、犯人は明示されなかったが、

徐々に、殺された家族の生き残りの復讐なんではないかとわかってくる。

面白かった。

シティポップの軽さ

シティポップを最近また聞くようになった。

シティポップの軽さが心地いい。

バカンスに行ったり、ダンスしたり、そんな歌詞が多い。

いまの日本の曲にはない感覚。

もしかしたらいまは、他の言語の曲にもないのかもしれない。

 

Youtubeでだらだら聞き流していたら、耳に止まったのが、

井上陽水フェミニスト(1979)という曲だった。

 

イントロが瑞々しい。その軽さにのって歌が始まる。

 

わたしきらいな男のタイプはフェミニストです

いつも言葉を探しているような

つまりすてきな男のタイプはピアニストです

軽い気持ちを風にのせるから

 

こんな軽く、しかも的確に男が女の気持ちをとらえている言葉が他にあっただろうか。

ものすごく共感する。40年前の曲。

https://www.youtube.com/watch?v=wY7td_TvQps

 

 

繊細さんと現代

繊細さんという言葉を最近知った。

HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)という敏感に感じやすい人のことを指すらしい。この敏感な人というのはいつの時代にもいた。ただこのタイプの人に「繊細さん」、「HSP」というレッテルを貼るのはどういうことだろう。

現代では、これまでのあらゆる差別や不公平がせきを切ったように糾弾されている。人種という概念を疑い、男女平等を訴え、人為的要因による環境破壊を止めるように人は街路にでて声を上げる。

この時代、つまり人がこれまで暗黙にうやむやにしていたものをしっかりを目に見える形で是正しようという時代に、この「繊細さん」という言葉ができる。

人は、是正することを目的に生きる。ネットでは何か炎上していないかもしくは炎上しそうな出来事はないかを探し続ける。少しでも、現代が善しとする基準から外れれば、寄ってたかって叩くようになる。人は、この行為が正しいと思う。間違った発言をした人間を叩いていいと認識し、無意識のレベルまでその認識を落とし込む。

「繊細さん」という言葉は、この社会の性向に沿って人気がでてきたのだろう。この流れは、労働基準法を違反している会社が叩かれ始めた10年代からの流れを引いているのだろう。人々の関心が、「やさしくない」ことを叩くことに向き、傷つきやすい人の味方になる。そこで、わたしたちは、傷ついているともっと言っていいのだと思う。かと言って、やさしい社会になっているのかと言えばそうではなく、なんだかもっとぎすぎすした社会になった気がする。

マス論 イメージと身体

マス論を書きたい。

マス論とは、マスターベーション論の略である。

マスターベーションに関する論考をイメージと身体という2つの観点から行いたい。

現代社会に生きる私たちが、自慰行為をする際、多くの場合、アダルト動画という動的イメージを見ながら、陰部に手を当てて、快楽を得る。

男性のオナニーの場合、射精と呼ばれる到達点、いわゆるゴールがある。これは、自分の性的快楽に、ある時点での、一時的な停止を言い渡すものである。このフィニッシュを目指して男性は自慰行為を行う。

ではこのフィニッシュはどうなされるのか。どうなれば、フィニッシュになるのか。射精までの過程は、どう構造化されているのか。

射精という行為におけるフィニッシュは、反復的な刺激を与えられ、熱を帯びた陰部が白濁の液体をさきっぽから発出することを指す。ここでの注意点は、単なる刺激だけでは、液体の発出は可能にならない。陰部を反復的に擦る行為による刺激を、物質的な刺激と呼ぶならば、もうひとつ別の刺激が、液体の発出には必要である。その別の刺激とは、行為者がエロいと感じるようなイメージによる刺激である。この刺激を脳神経的な刺激を呼ぶことにする。

つまり、射精というフィニッシュが可能になるには、2つの刺激、「物質的な刺激」と「脳神経的な刺激」が必要と言える。動画を通して、エロさを感じ(脳神経的な刺激)、陰部に適切な強さの反復的な刺激を与えていく(物質的な刺激)ことで、フィニッシュする。

ここで、私が着目したいのは、自慰の行為時間である。どの程度の時間で、フィニッシュまで辿りつくのか。フィニッシュまでは、適切な物質的刺激だけでなく、適切なイメージ的刺激がうまく調合しあうことが必要である。単に、適切な刺激が陰部にあっても熱を帯びないこともある。またイメージだけで熱を帯びることもある。夢精などがいい例だろう。陰部の熱は、単に、私という個人的身体によって自家発電するのではなく、身体の外のイメージの刺激を受けて、発電すると言える。

性欲は、人間の本来的欲求と呼ばれる。ただ実際に、射精を行うとなると、そこには、外部の刺激が必要である。性欲のレベルが実際に、現動のレベルまで移行するには、外部の刺激が必要なのだ。性欲は、欲望の次元まで昇格されることで(欲望とは他者の欲望である ラカン)、いわゆるオナニーが可能になる。

オナニーは単になる、自己愛撫なのではなく、他者、社会を巻き込んだ行為なのだと言えるだろう。

自慰行為時間が短い時、そこには、他者から受ける刺激が、行為者が求める刺激とうまく組み合わさった時であるだろう。また、行為者自身が求めるイメージ的刺激と他者からの刺激(エロいと感じるような動画)がうまく噛み合わさらないと、その適切なイメージを探して、行為者は、アダルトサイトを渉猟することになる。そのため、行為時間は、長くなる。

どのタイプのエロさを求めるか。動画を見た時に、エロいと感じるのはどうしてなのか。エロいと感じない動画があるのはどうしてなのか。それは、私という行為者が生きている社会、文化、言語のレベルで決定される。私という行為者が、母語以外のサイトを渉猟しない時、そこには閉じたイメージしかない。その閉じたイメージに適合するような動画を探し、その広さのイメージで満足することになる。

ここで気づくのは、イメージがつねに性的次元でも先行しているということである。刺激の気持ちよさを感じ取るには、身体という土台が必要である。だが、その身体には、絶対に、イメージが必要なのだ。イメージと身体、この2つよって、私のオナニーは可能になる。

オナニー、それは、私の外部のイメージと私の内部のイメージが邂逅し、そのイメージに私の身体が正しく反応すること。それは、私と外との出会いであり、また来たるべきイメージの到来なのだ。

哲学の誤配と対話篇 ※その他文化論など

哲学の誤配と対話篇を読んだ。久しぶりに東浩紀の本を購入して読んだ。韓国での講演をもとにして作られた『哲学の誤配』と日本の識者との対話を集めた『対話篇」は二冊とも読みやすく、すぐに読み終えることができた。各識者との対談はどれも興味深く、知的な興奮を覚えるものばかりだった。また、リオタールのポストモダンの条件の読み直しのところも、その読みの深さやいま改めて読み直すことの重要さを知ることができた。

 

細部には立ち入らず、東の政治的ポジションについて話す。彼の政治的ポジションに一部は賛成しつつも、すべてに賛同できるわけではない。まず、『哲学の誤配』で、日本には無理に政治のポジションを決める必要がないノンポリでもよかった時代があったと韓国の人に話していた。そのことは事実だが、そう断定してしまうことと東で政治的ポジションを明示していないこともあって、そう言ってしまえるのは、結局は「マジョリティ」に立つ人間だからできることなのだろうと思ってしまった。ここでの「マジョリティ」とは大多数の側のことを指すのではなく、「白人・30代・男性」を意味する。つまり、権力側に立つ側を指す。「高学歴・論壇での成功・男性」こう言ってもよいだろう。育ちが田園都市中高一貫に通い東京大学の文系で思想を研究する。自身をオタクとして社会現象への分析が優れていても、その身に染みた「マジョリティ性」は消すことができない。その頃にも、政治的ポジションが決まったなかで「主張」をしている人たちでいて、そうしなかったのは、社会的な空気がなかっただけ。自分がそういう主張をしなくてもいい場所にいる者たちの特権でしかないだろう。

また、國分との対話の際、「主権」をめぐる立場がわかれた。國分は主権行使によって、権利を民衆のものに戻すべきだと考える。東は、そうとはいっても現在の民主主義システムのなかでは、みんなのひとつの主権などありえないのだから、別の仕方で政治をする必要があるとする。ここでも東は、「主体」を引き受けることをしない。

現代思想の専門家は、よく新しいゲームを作り出すとよく言う。これまでとは、別の仕方で、新しい身体を作り出すこと。ドゥルーズガタリデリダのように、既存のゲームには飲み込まれない自分だけのゲームを作り出すことがよく言われる。だが、それにしても、「どうやって」作り出すかをだれも言及したことがないのではないか。結局は、何が可能だったのか。68年の直接的には何も変わりはしなかった革命的幻想にしがみついているだけなのではない。

 

※色々書いたが東の意見には賛同する場合の方が多いと改めて書いておく。

※日本人の成人という概念と西欧人の概念はまったく別物で、主体を引き受けて主権を行使することの正しさには、私自身も辟易している。日本人の「幼稚な」成人や変態性こそが何か世界規模でのより良い「別のあり方」を見つける鍵になるだろうと考える。

※信じることをめぐる國分と東の対話は興味深かった。確かに日本人はまず相手の言うことを信じることから始めることはできない。西欧人と話す際は、まず信じることから始まる。この問題は大きくて、まず、インターネットとの関係性。インターネットは構造的に性善説にもとづいて作られてある。wikiを上げればわかりやすい。「技術力の高い」日本人がどうしてインターネット時代に、経済成長が鈍ったのかは、この日本人に欠けた性善説が関係しているのかもしれない。また、まず他人を信じることから始められないのは、結局は日本人の育ち方が「他人から釘を刺されること」によって成立してことが関係しているだろう。ラテン系の友人と話してみるとわかるが、授業でも仕事でも何気ない日常の会話においても、自分が自分がという感じが強い。その自己の主張の強さが、他人を信じている、善をもとにしているからこそできるのだろう。他人に悪意があるとまず思っていたらそう自己主張などできはしない。私は、まず他人を信じる生き方が好きだが、よいことばかりでもない。例えば、コロナについて考察してみれば、アングロサクソン、ラテン系の国であるほど、感染者数、死亡者数は多い。一方、監視性が強い東アジアの社会ほど、感染者数、死亡者数は少ない。「信じること」そのテーマだけで西欧と東アジアの差異。現代経済論。色々派生できる。

※個人的には、中沢新一との対談が一番好きだったかもしれない。キテた。あれくらいの感覚で世界を見たいたいと思った。

ジャック・リヴェット 美しき諍い女

ジャック・リヴェット  美しき諍い女  1991年

 

エマニュエル・ベアールが美しい。見たのは2回目。6年くらい前に見ただろうか。フランスの初夏のみずみずしさが映像に溢れる。その光景と対照的に画家の作業場での暗さが何かもの怪しさを物語っている。

 

画家の固執的な願望がモデルを「モノ」扱いする。ただ徐々に二人の関係性(画家とモデル)が変化していく。老いた画家が若い女を通して創作を再開することが可能になる。その関係は一概に性的な関係とは呼び難く、「男性的」な暴力が直接振るわれることはない。ただ老人の創作活動とモノと化した女モデルの関係が何か脆い怪しさを感じることができる。

 

※mubiで見たのだが、昨日が公開可能な最終日で、もう一度見たいと思ったがそれはできそうにない。

濱口竜介 天国はまだ遠い

濱口竜介 天国はまだ遠い 2016年

何が現実なのか、戸惑ってしまう映画だった。
幽霊が雄三にのりうつるとき、それはふりなのではないか。
いや、あの女子高生は、幽霊でそばで横になっているからのりうつっているのではないか。
映像通りなら、のりうつっている。
ただそれは、じっさいに、事実かと信じていいのか。
信じようとする自分を疑うことになる。

先日見た、雨月物語もそうなのだが、日本映画のなかで、現実と虚構の境界のあいまいさみせる映画が好きなんだろうと思った。
黒沢清もそう。