溝口健二 雨月物語
男の欲望の抑えきれなさやそれに被害を受ける女。
見ている側として、女と出会った後の世界観はすでに、
その幸福がつかの間であることがわかってしまう。
ぼんやりとした温泉の湯気、湖の映像の不確かさが幸福が現実ではないことを映し出す。
旅僧侶に会う。
「訳はない。命がなくなる。望んではならぬ恋を望んだ」
老婆は言う。
「男は一旦の過ちで済んでも女はすまぬ」
老婆の執拗な物言い。
欲にくらんで現実と欲望が映し出す世界との分け目がわからなくなる。
身分相応の欲をもとう。
最後に田中絹代が泣く。
女はすべてを知っている。
幻想だった。
それにしても男がだめすぎるな。
あなたが理想のお方になったとき、私はもうこの世にはいないのです。
確か二回目
昔より入り込んで見えた。
日本映画が見せる現実と虚構のあいまいさ。
それは、現世と常世の境界のあいまいさではないか。
読むこと1
最近、自制がとれてないと思い、本棚をぼーと見て手にとった。久しぶりにストア後期の哲学に触れた。何年前に読んだのだろう。4,5年前かもしれない。
【読んだこと】
〇マルクス・アウレーリクスは、少し全体主義的な感じがした。宇宙からの全体的な流れがあって、個人は全体の一部であり、全体のために、自己を統制して善き行動をすべきである。
P122「変化を恐れる者があるのか。しかし変化なくしてなにが生じえようぞ。宇宙の自然にとってこれよりもアイスベック親しみ深いものがあろうか」
P77 「つねに近道を行け。近道とは自然に従う道だ。そうすればすべてをもっとも健全に言ったり、おこなったりすることができる。このような方針は、君を解放するのだ」
〇エピクテートス。長年奴隷だったためか、自分の置かれている状況に耐えることが思想の根本にあるような気がした。意志をもって高みに行く。快楽を気に入らないようで、純粋意志のような観念によって、善き人生を歩もうとするところに少し私とは考えが異なる。ただ読んでいて心地がよい。生きる気が湧いてくる。
P90「第二三章 見栄をはって朗読したり、問答する人々に対して」
*意志という言葉は、どうも自由意志の不在がある程度自明になった現代からすれば、その単語を使えば使うほど、なんだか書いてある内容が薄れるような気がしていれない。
中上健次、岬と地の果て 至上の時を手に取った。いまは読めなかった。物語に入り込めるような精神状況ではない。
家にある本を手にとって見比べて、今日はこれを読もうかと考える時間の使い方は、自分の欲望や身体をよく知ることができる最善の方法のうちのひとつであるように思う。
ブーバー 我と汝 岩波文庫
ブーバーの<汝>という概念は、ハイデガーの現存在やラカンの小他者と似ていると思った。
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