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哲学の誤配と対話篇 ※その他文化論など

哲学の誤配と対話篇を読んだ。久しぶりに東浩紀の本を購入して読んだ。韓国での講演をもとにして作られた『哲学の誤配』と日本の識者との対話を集めた『対話篇」は二冊とも読みやすく、すぐに読み終えることができた。各識者との対談はどれも興味深く、知的な興奮を覚えるものばかりだった。また、リオタールのポストモダンの条件の読み直しのところも、その読みの深さやいま改めて読み直すことの重要さを知ることができた。

 

細部には立ち入らず、東の政治的ポジションについて話す。彼の政治的ポジションに一部は賛成しつつも、すべてに賛同できるわけではない。まず、『哲学の誤配』で、日本には無理に政治のポジションを決める必要がないノンポリでもよかった時代があったと韓国の人に話していた。そのことは事実だが、そう断定してしまうことと東で政治的ポジションを明示していないこともあって、そう言ってしまえるのは、結局は「マジョリティ」に立つ人間だからできることなのだろうと思ってしまった。ここでの「マジョリティ」とは大多数の側のことを指すのではなく、「白人・30代・男性」を意味する。つまり、権力側に立つ側を指す。「高学歴・論壇での成功・男性」こう言ってもよいだろう。育ちが田園都市中高一貫に通い東京大学の文系で思想を研究する。自身をオタクとして社会現象への分析が優れていても、その身に染みた「マジョリティ性」は消すことができない。その頃にも、政治的ポジションが決まったなかで「主張」をしている人たちでいて、そうしなかったのは、社会的な空気がなかっただけ。自分がそういう主張をしなくてもいい場所にいる者たちの特権でしかないだろう。

また、國分との対話の際、「主権」をめぐる立場がわかれた。國分は主権行使によって、権利を民衆のものに戻すべきだと考える。東は、そうとはいっても現在の民主主義システムのなかでは、みんなのひとつの主権などありえないのだから、別の仕方で政治をする必要があるとする。ここでも東は、「主体」を引き受けることをしない。

現代思想の専門家は、よく新しいゲームを作り出すとよく言う。これまでとは、別の仕方で、新しい身体を作り出すこと。ドゥルーズガタリデリダのように、既存のゲームには飲み込まれない自分だけのゲームを作り出すことがよく言われる。だが、それにしても、「どうやって」作り出すかをだれも言及したことがないのではないか。結局は、何が可能だったのか。68年の直接的には何も変わりはしなかった革命的幻想にしがみついているだけなのではない。

 

※色々書いたが東の意見には賛同する場合の方が多いと改めて書いておく。

※日本人の成人という概念と西欧人の概念はまったく別物で、主体を引き受けて主権を行使することの正しさには、私自身も辟易している。日本人の「幼稚な」成人や変態性こそが何か世界規模でのより良い「別のあり方」を見つける鍵になるだろうと考える。

※信じることをめぐる國分と東の対話は興味深かった。確かに日本人はまず相手の言うことを信じることから始めることはできない。西欧人と話す際は、まず信じることから始まる。この問題は大きくて、まず、インターネットとの関係性。インターネットは構造的に性善説にもとづいて作られてある。wikiを上げればわかりやすい。「技術力の高い」日本人がどうしてインターネット時代に、経済成長が鈍ったのかは、この日本人に欠けた性善説が関係しているのかもしれない。また、まず他人を信じることから始められないのは、結局は日本人の育ち方が「他人から釘を刺されること」によって成立してことが関係しているだろう。ラテン系の友人と話してみるとわかるが、授業でも仕事でも何気ない日常の会話においても、自分が自分がという感じが強い。その自己の主張の強さが、他人を信じている、善をもとにしているからこそできるのだろう。他人に悪意があるとまず思っていたらそう自己主張などできはしない。私は、まず他人を信じる生き方が好きだが、よいことばかりでもない。例えば、コロナについて考察してみれば、アングロサクソン、ラテン系の国であるほど、感染者数、死亡者数は多い。一方、監視性が強い東アジアの社会ほど、感染者数、死亡者数は少ない。「信じること」そのテーマだけで西欧と東アジアの差異。現代経済論。色々派生できる。

※個人的には、中沢新一との対談が一番好きだったかもしれない。キテた。あれくらいの感覚で世界を見たいたいと思った。