読むこと、見ること。

読んだこと、見たことの感想、批評。思ったことなど。

マス論 イメージと身体

マス論を書きたい。

マス論とは、マスターベーション論の略である。

マスターベーションに関する論考をイメージと身体という2つの観点から行いたい。

現代社会に生きる私たちが、自慰行為をする際、多くの場合、アダルト動画という動的イメージを見ながら、陰部に手を当てて、快楽を得る。

男性のオナニーの場合、射精と呼ばれる到達点、いわゆるゴールがある。これは、自分の性的快楽に、ある時点での、一時的な停止を言い渡すものである。このフィニッシュを目指して男性は自慰行為を行う。

ではこのフィニッシュはどうなされるのか。どうなれば、フィニッシュになるのか。射精までの過程は、どう構造化されているのか。

射精という行為におけるフィニッシュは、反復的な刺激を与えられ、熱を帯びた陰部が白濁の液体をさきっぽから発出することを指す。ここでの注意点は、単なる刺激だけでは、液体の発出は可能にならない。陰部を反復的に擦る行為による刺激を、物質的な刺激と呼ぶならば、もうひとつ別の刺激が、液体の発出には必要である。その別の刺激とは、行為者がエロいと感じるようなイメージによる刺激である。この刺激を脳神経的な刺激を呼ぶことにする。

つまり、射精というフィニッシュが可能になるには、2つの刺激、「物質的な刺激」と「脳神経的な刺激」が必要と言える。動画を通して、エロさを感じ(脳神経的な刺激)、陰部に適切な強さの反復的な刺激を与えていく(物質的な刺激)ことで、フィニッシュする。

ここで、私が着目したいのは、自慰の行為時間である。どの程度の時間で、フィニッシュまで辿りつくのか。フィニッシュまでは、適切な物質的刺激だけでなく、適切なイメージ的刺激がうまく調合しあうことが必要である。単に、適切な刺激が陰部にあっても熱を帯びないこともある。またイメージだけで熱を帯びることもある。夢精などがいい例だろう。陰部の熱は、単に、私という個人的身体によって自家発電するのではなく、身体の外のイメージの刺激を受けて、発電すると言える。

性欲は、人間の本来的欲求と呼ばれる。ただ実際に、射精を行うとなると、そこには、外部の刺激が必要である。性欲のレベルが実際に、現動のレベルまで移行するには、外部の刺激が必要なのだ。性欲は、欲望の次元まで昇格されることで(欲望とは他者の欲望である ラカン)、いわゆるオナニーが可能になる。

オナニーは単になる、自己愛撫なのではなく、他者、社会を巻き込んだ行為なのだと言えるだろう。

自慰行為時間が短い時、そこには、他者から受ける刺激が、行為者が求める刺激とうまく組み合わさった時であるだろう。また、行為者自身が求めるイメージ的刺激と他者からの刺激(エロいと感じるような動画)がうまく噛み合わさらないと、その適切なイメージを探して、行為者は、アダルトサイトを渉猟することになる。そのため、行為時間は、長くなる。

どのタイプのエロさを求めるか。動画を見た時に、エロいと感じるのはどうしてなのか。エロいと感じない動画があるのはどうしてなのか。それは、私という行為者が生きている社会、文化、言語のレベルで決定される。私という行為者が、母語以外のサイトを渉猟しない時、そこには閉じたイメージしかない。その閉じたイメージに適合するような動画を探し、その広さのイメージで満足することになる。

ここで気づくのは、イメージがつねに性的次元でも先行しているということである。刺激の気持ちよさを感じ取るには、身体という土台が必要である。だが、その身体には、絶対に、イメージが必要なのだ。イメージと身体、この2つよって、私のオナニーは可能になる。

オナニー、それは、私の外部のイメージと私の内部のイメージが邂逅し、そのイメージに私の身体が正しく反応すること。それは、私と外との出会いであり、また来たるべきイメージの到来なのだ。